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「語り合う文学教育の会」へのお誘い

 近年の文学教育は、「文学を教える」か、あるいは「文学で教える」かのどちらかの立場に立っています。「文学を教える」というのは、作品の思想、あるいは人物、描写を教えるということで、「文学で教える」というのは、その作品を通して、物の見方・考え方、あるいは表現手法を教えるということです。前者は古い立場で、後者は新しい立場だとされていますが、どちらも、読者の外に確固とした作品が存在するという点では同じ立場です。しかし、文学作品というものは、読者の外側に、つまり書かれた文章の内にあるものなのでしょうか。読者論はそのことに疑問を投げかけました。

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 私たちは、長年の実践を通して、文学作品というものは読者の内側にしか存在しない、そして、その読者の内側にある作品は、教師の働きかけを通してしか見えてこないということを確認してきました。そういう立場からすると、文学の授業は、「文学を教える」ことでもなければ「文学で教える」ことでもなく、子どもたち一人一人の内なる文学作品を見いだす、すなわち「文学を見いだす」仕事だと考えるべきだろうと思います。そういう姿勢で文学の授業に臨み、子どもたちに接していると、今まで見えなかったことがらや子どもの姿がずいぶん鮮明に見えてくるように思えます。


 教師が、あるいは学級の仲間が、一人一人の作品世界を見いだそうという姿勢で授業に臨めば、特に何かを教えようとしなくても子どもは意欲的になるものだし、何よりも文学の世界にはいり込み、そして文学によって解放されるでしょう。文学の読みとは本来そうであるべきだし、そういう読みこそが、今、居場所のない子どもたちを救ってくれるのではないでしょうか。

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 読みによって子どもの中に生まれるものを大事にしようということでは、説明的文章の読みもまた同じことです。説明的文章の読みというと、たいてい、段落に分けて、各段落の要点をつかみ、段落相互の関係を明らかにして、文章の要点をまとめるというふうになっています。しかし、文章の読み手は、そういう形式的なことだけを求めているのではありません。説明と虚構を読むという違いはありますが、説明的文章の読みも、文学作品の読みと同じように、読み手は、自己と文章とを対峙させ、情熱や疑問や葛藤を持って文章を読み進めていくのです。そういう読みの中で、読み手の中にどういうドラマが起こっているのか、教師はそこに注目する必要があります。

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 子どもを知り、子どもとともに生きようと考えるすべての方々に、私たちの会に参加されるよう勧誘いたします。

語り合う文学教育の会

―実践指針―

子どもの中に文学を生み出すためには?

踏まえるべきいくつかの原則と、それを実現するための手だてをご紹介いたします。

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