教室で文学を生み出すための原則と手だて
藤原 和好
文学の授業は、「文学を教える」ことでもなく、「文学で教える」ことでもありません。子どもの中に生まれる文学を見出し、それを意味づけてやることです。なぜなら、文学は、読み手の外にあるのではなく、読み手の内側に生まれるものであるからです。 文学は子どもの中に生まれるものだとはいっても、通常の、読解的な読みではそういうことは起きません。子どもの中に文学を生み出すためには、踏まえるべきいくつかの原則と、それを実現するための手だてが必要です。
文学は、読み手(子ども)の中に
生まれるものである。
したがって、文学の授業は、
子どもの中に生まれる文学を見出してやることである。
子どもを、人物・世界・思想と全面的に向きあわせてやる。
(虚構をくぐらせる。)
子どもの読みに間違いというものはない。
子どもの発言の背後には、その子の生活や思想があるということを意識しておく。
子どもの読みは、ある段階で
全面的に認められるべきである。
教師から見て、
それがどんなに未熟な読みであっても、
一定の読み深めを終えた段階では、
それはその子の読み、
その子の作品として認められるべきである。
他人の読みもまた、
その子の個性的な作品として
お互いに認めるべきである。
このことから、「交流」という活動が、
授業の最終段階で不可欠なものとして
位置づけられる。
それぞれの子どもが、
それぞれに大事なものを
持っているということを日常的に確認する。
子どもの生活や思いを知る。
(日誌、作文など)
教師は、教えるという姿勢ではなく、
ともに作品を楽しむ
(教師自身の中に自分の文学を創り出す)
という意識で授業に臨む。
子どもと向きあって授業する。
黒板の方を向いているのではなく、
子どもと語り合うという姿勢で授業する。
解釈から始めるのではなく、
「どう思う?」という発問から始める。
「感じる」読みを大事にする。
「出会い」「読み深め」「交流」の
各段階のねらいを明確にし、メリハリをつける。
「出会い」
(子どもの思いを、自由に、すなおに出させる)
「読み深め」
(虚構をくぐらせ、非日常の世界を経験させる)
「交流」
(他の読みを楽しみ、お互いを認め合う)
既習の説明文や物語・詩などと関連づける。